2012/07/16

分からないことを分かる

先が読めない展開、予測できない災害、お金に代えられない価値 etc...
"分からない"ということは良いことと悪いことが表裏一体の不思議な状態です。
Google先生やyahoo先生に聞けばどこになにがあるのか、それはどんなもので、どんな歴史があるのか。
究極の百科事典として機能していて、利用したこと無い人なんかこんなブログ見ていないですよね。
なんでも"分かる"、知ることの出来る便利な時代です。



ちょっと脇道に逸れますが、なにかとシェアシェアと、何かあるとすぐに「共有」したがるのが最近の流行ですよね。
facebookとかタグ付けするにしてもいきなり自分の写真がネットに放り出されるのは、未だに慣れない感覚です。
「共有」というのはその先に「理解」されることを前提としたものだと思います。
「理解」ってのはそのまんま、"分かる"ってことです。

旅をして写真を撮って、それをネットに放流して"分かって"もらう。

そんなことを繰り返している間に、なんでも自分の中に許容することができるという錯覚に陥ってしまいそうだなと最近よく思います。

自分の中に許容できるものがたくさんあると錯覚すると、なんでも共感できる、つまり"分かる"ことができて、好きになれると思ってしまいます。


でもなんでも好きになれるって、なんにも好きになれないことだと思います。
同じようになんでも"分かる"っていうのは、なんにも"分からない"ってことなんです。
( 持論ですよ、持論。 )



何故、なんでも"分かる"っていうのは"分からない"ことなのか。
分からないものの存在を否定しているように感じるからです。

好きになれない、許容できない、共有されても共感できないことは多々あるはずです。
人づてに聞くとそういう感覚って手に取るように感じられるのに、ネットとかフラットな舞台に情報を投げるとなんとなく鈍りがちですよね。

でもそういう"分からない"ものがあるからこそ、いろいろな表現があることが理解できて、そこに楽しさ、面白さを見出せるのだと思うのです。



ネットでそこかしこに見る"炎上"も同じような理屈で、
自分はだいたいのことをネットで理解できる、受け入れることができる、分かることができると錯覚してしまっていると、
いざ本当に分からないものが出て来た時にものすごいアレルギーが出てしまうのだと思っています。(最近はいじめ問題がいまだに話題に上がっていますね)

だから分からないものは徹底的に潰して良い、無かったことにして良いみたいな言動が出来ちゃうわけです。自分が何も分かっていないのも知らずに。


最近読んだ本にこんな本があります。

虫眼とアニ眼


宮崎さんと養老さんの対談形式の本なのですが、最後の方に養老さんのジブリ作品の考察があり、宮崎作品の解説を頼まれた時のエピソードが載っています。
宮崎作品はアニメであって、アニメに解説なんか要らない。子どもだってわかるから喜んで見ている。その意味で私は、いまここで、じつは不必要な解説を書いている。要らないものをなぜ書くかというなら、頼まれたからである。なぜ頼まれるかというなら、頼むほうが、なにか解説らしいものが要ると思っているからであろう。こんなものが要ると思っていることと、なぜ賞をもらったかという質問は、たぶん根っこでつながっている。アニメがアニメとして、一人で立つはずがない。そう思っているらしい。つまりアニメなんて、信じられない。どこかでそう思っているに違いないのである。

賞というのはかの有名は『千と千尋の神隠し』がベルリンで金熊賞をとった時の話です。

すべては語られる、理解されて言葉に分解され、人に分かるようになると信じてやまない人たちは、アニメというジャンルそのものすらを否定するかのような振る舞いをしてしまうという話です。

この後、「作品の意味を言葉にできない、そんなものに価値があるのか」という問いに対し、
「いまの人って、そういう風にすぐ考えるらしい。すべては意識だ。すべては言葉になるはずだ。結局はそう思っている。だけどわかりきった自分の身体だって、すべて意識にはならないでしょうが。ある種の想いが、すべて言葉になるか。すべてが意識になるというなら、あらゆる芸術はなんのためにあるか。作品の解説のほうが、作品自体に勝るとでも良いのだろうか」

なるほど、というかまぁそうだよねって感じです。
本当の意味で分かるということは、分からないものも許容するという、自分の器を大きくする、ということなのかなと思います。



芸術祭の時に書いた、
「分からないものを許容する」ということは、必ずしも我慢ではない
ってことにつながるのかなって思います。
分からないことを分かってもらえるような作品制作なり研究なりしていきないなーってな感じで、今日はここまで。

ではではー。


2012/07/07

いじめとか場所の話とか。

卒制では、ウェブを使って居心地の良い場所を作りたいと思っていろいろ頑張っているわけですが、こうあれば居心地maxだ!みたいな話だけじゃなくて、こうだと最悪だ…みたいなことも考えねばなぁと思ってちょうど大津市のいじめの話がいろいろあったので読んでみました。

記事をいくつかピックアップして自分なりにまとめたので、興味が湧いたらソース元をちゃんと読んでね。



【関西の議論】“自殺練習”の衝撃 事実隠す市、沈黙続けた女性市長 大津の「いじめ死」で新展開  - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120707/waf12070707010000-n1.htm
市の教育委員会の落ち度を責めているのかと思いきや、涙ながらにいじめ体験の告白をしたくせに杜撰な対応をしてる市長へのバッシング。論点があっちこっち。



例のいじめのあれについてメモ - 情報の海の漂流者 (id:fut573 / @fut573)
http://d.hatena.ne.jp/fut573/20120706/1341581441
いじめの調査が学校が行うことへの疑問から始まり、いじめの対策についての現状への意見、最後にいじめという情報の扱われ方について述べられていたり。
ドライな感じですが最後の問いかけは怖いですね。
(以下本文最後より引用)
今回の大津のいじめ自殺問題が、これだけ騒がれているのは何故なのだろう?
自殺練習疑惑というセンセーショナルないじめ方が原因?
では、この人が「ありふれた」いじめにより死を選んだ場合は、話題にもならずに埋没していたのだろうか?  
ただ死ぬだけでは、注目されず、極めてニュースバリューが高い死に方をしない限り、自殺をしても騒ぎにもならないのだろうか?
ただ、まるでマスコミにとりあげられなければ、たいていのいじめの実態は闇の中にぽいっ!みたいな印象を与える言い方はどうなのかね。
騒ぎにならなくても当たり前に対策はとられるんだよね?ね?
教師志望の人がもし見てたらほんと頼むね。僕もできるだけ頑張るので。



森口朗公式ブログ  2009-05-20 この「いじめ対策」はすごい!
http://d.hatena.ne.jp/moriguchiakira/20090520
一転して学校側のいじめ対策の実用的な話。
これちょっと前にもはてなでトップ来てたし、とりあえず現状をなんとかしたい!っていう気持ちを持っている人は多いんだろうなぁ。
加害者へのその後の対応が書いてないのがなんとも言いがたいけど、いろいろ勉強にはなる。



じゃあ、今日は、イジメの話をしよう。: 極東ブログ
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2012/07/post-60a3.html
#Zenback @zenbackさんから
難しくて三回くらい読んだけど、正直こっちの方が目から鱗だと思う。
小学生なりにこういうこと考えて常に行動してる子ってめちゃくちゃ多いと思う。
いじめている人数、傍観している人数、その中でいじめに異を唱えたいという潜在欲求のある人数から、自分の立ち振る舞いがどこまでなら上手くいくか、みたいな。

これをなんか方法論として分かりやすく伝えられたらもっとスマートに対策ができるんじゃないかなぁ。



RT @yutori2ch: 【大津・中2自殺】「実は、電話で何度か相談があったんだよね」 自殺直後、担任が生徒数人に話す
http://bit.ly/N6QMuZ
みんな大好きまとめサイト。
2chに代表される掲示板の怖いとこって、同じテンプレで同じ書体で書かれていることによってまるで全体が一つの人格を持っているかのように見えることだよね。
だからみんなが叩いてれば、それが正義。
いや、正義とかいう胡散臭い言葉よりももっと強い、"重力"みたいな束縛感なんだろうな。



"叩いて構わない奴はとことん叩く"空気と、いじめの共通点 - シロクマの屑籠 (id:p_shirokuma / @twit_shirokuma)
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20120707/p1
いじめとネットの炎上とかを絡めたお話。個人的にはすごい共感できる。もっと寛容になれないのかな、っていつも思う。
あと、大人が道を示すことがなんにしても長期的で教育的な対策だって主張もすごい分かる。


↑を読んで思い出した誰かさんのツイート。RTで回って来ただけなのでフォローしてない人のつぶやき。
(つぶやきのみ引用)
ていうか生徒指導という名の校則縛りや人格形成という名のパワハラも問題だけど、部活はマジで廃止した方がいい。部活のせいで子供が学校に縛られる時間が長くなり過ぎて学校が世界の中心になってしまう。そこで友達が出来なかったら世界の中心で孤独、みたいになってしまう。

いやいやいや、廃止って。

部活以外の選択肢があるってことには大賛成。あんなのやりたいやつがやればいいんだよ。(ちなみに僕は部活大好き。過程に意味を見出すって大切なことだよ。)

でも廃止する必要ないでしょ。なんで部活以外の選択肢があるって親が教えてあげないの?責任をシステムの方になすりつけちゃうの?
世界の中で孤独って、親はどこ行っちゃったの?先生は?兄妹は?
部活廃止して、今の子ども達はどこで結果を省みない一生懸命さを学ぶの?

大人が道を教えてあげたり、無言で示してあげたりしなきゃ気付けないよ。だって子どもなんだし。
学校では友達いないけど塾だとうまくやれる子ってのもいるし、子供内でのパワーバランスっていうのは微妙なもので、学校という成績や親同士の付き合いや、様々なしがらみのある学校と、学校の外ではパワーバランスが全然違う。子供には学校以外の場所で長く時間を過ごせる場所を確保してあげた方がいい
まぁこういったつぶやきもあるので、「廃止」ってところはどうでもいいんだろうと思います。
コミュニティを自分の中に多重に持てるようにするっていうこの人の考え方は、すごく共感できます。
ただ、学校って場所がもうだめなんだよねーみたいな言い方は好きじゃない。
結局それが主流になっちゃったら同じ末路をたどるわけだしね。


いろいろ書き散らしてしまいました。
引用 + コメントを一つの単位でささーっと流し読みしてもらえれば嬉しいです。


読んで回った感想としては、場所にもそこにいる人々によって"場所の人格"のようなものが形成されいくんだな思いました。
空気感みたいに言うと分かりやすいのかな。

いじめが起こる教室内には、生徒と教師以外にも、その場の空気という第三の人格が現れ、時にその人格はいじめを煽るような働きをする。
怖過ぎるよね、確実に個人ではどうしようもない。
ただ、いじめのない普通のクラスってのはその空気、場所の人格によっていじめが抑制されているというところもあるのも事実なわけで。

確実に言えるとすれば、その場所の人格を正してあげたり、導いてあげられるのは、子どもではなく大人だよねっていうこと。
そのためにすべきなのは、加害者の名前をtwitterに晒すことではないよねっていうこと。
怒りをあらわにするのは勝手だけど、その矛先を誰かに向けた瞬間、あなたの場所の人格は歪み始めてるよっていうこと。


難しいけど、こういう話もしっかり消化していきたいな。